これまでの記事で、買収理由、買収戦略、シナジーについて説明してきましたが、ここではM&Aの交渉過程で買い手(とくに、買い手のM&A担当者)に働く以下の7つのインセンティブについて見ていきたいと思います。
買い手のインセンティブ①安く買いたい
過大な買収価格を支払って、自社の企業価値を毀損してしまえばM&Aの意味がありません。買収対象会社の価値や買収後のシナジーを所与とすれば、買い手としては安く買収できれば、それだけ買収後のグループとしての企業価値を増大させることができます。
したがって当然、買い手としては、安く買収できるにこしたことはありません。
しかし、買い手の担当者の中には、絶対額として低い価格で買収したいというよりも、経営陣や上司からの評価を得るために、売り手の売却希望額からどれだけ値切るかということを考えている人もいます。
買収決定前に行われるデューデリジェンスは、リスク、シナジー、買収後の運営方針、適正買収価格などを総合的に評価することを目的に行われるべきものですが、あら探しをして本質的でない議論をもちかけて値下げ交渉をしだす買い手も、なかにはいます。
買い手のインセンティブ②独占的に交渉したい
他社と競合して検討すると買収価格がつり上がる要因になるため、買い手はなるべく独占的に売り手と交渉することを望みます。
したがって、通常買い手は入札(オークション)形式の売却案件を好みません(ちなみに、オークションで最もいい条件を提示し買収できたとしても、高値掴みしたのではないかと後悔することを「勝者の呪縛」といいます)。
買い手のなかには、仲介会社に対して、「フィーを多く払うから独占的に交渉させてほしい」といってくるところもありますが、売り手としては、いい会社であればあるほど、「複数社と交渉したうえで最もいい相手を選びたい」と考えるので、独占的に検討するのは難しいといえます。
なるべく競合が少ない状態で売り手と交渉するには、スピード感をもって検討を進めることが重要です。
一定割合の売り手は売却を急いでいますし、売却活動を始めると売り手は精神的に不安になり、「早くすっきりしたい」と思うようになるため、売り手は早く検討を進めてくれる買い手との交渉を優先する傾向があります。
ほかには、売り手の希望条件のなかで、ほかの買い手候補が受け入れがたいものを飲んであげることで、事実上独占的に交渉できることがあります。
お金をかけてデューデリジェンスをしたあとで、売り手に「ほかで決まりました」といわれて逃げられたくないため、買い手としてはデューデリジェンスの前に独占交渉権を要求するのが一般的です。
独占交渉権が与えられるかどうかはケースバイケースですが、多くのケースでは、買い手と売り手との間で基本的条件に達した場合に、1〜3カ月程度の独占交渉権が買い手に与えられます。
買い手のインセンティブ③都合のいいスケジュールで買収したい
どうしても買収したい会社の場合、「ほかの買い手があらわれる前に早急に話をまとめたい」と買い手は思いますし、また買い手の決算期末が迫っていて、今期の売上に取り込みたいときも早期の買収を希望することがあります。
逆に、売り手の会社の直近の業績をもう少し見極めたい、また社内手続き、関係者の説得、資金調達に時間を要する場合はスケジュールを遅らせることを買い手は要求します。
売り手にはなかなか買い手の内部の検討プロセスは見えにくいので、買い手の一方的な都合でスケジュールを延期したりすると、売り手の感情を害して、買い手に対して不信感をいだくこともあります。
したがって、信頼関係を維持しながら交渉を継続するためには、買い手からスケジュール変更を申し出る際には、その理由を売り手によく説明することが重要です。
買い手のインセンティブ④リスクを最小化したい
デューデリジェンスで対象会社を詳細に調べれば調べるほどリスクは軽減できますが、その分、会計士、弁護士等の専門家に支払うフィーが高くなるので、リスクの軽減と費用はトレードオフの関係になります。
また、リスク軽減の一環として、買い手としては社員の勤務継続の意思や能力を確かめるために、幹部やキーとなる社員と買収決定前に面談することを希望することもあります。しかし、売り手は売却の情報が社員に漏れることを嫌うので、買収前には社員と面談できないケースが多く、買収前の社員との面談可否は買い手と売り手との間でせめぎ合いになることがあります。
最終的な譲渡契約においても、買い手と売り手のリスク分担が往々にして問題になりますが、通常は譲渡前の事項(売り手が表明した事実)については売り手が責任を負い、譲渡後の事項(業績や従業員・取引先の動向)については買い手が責任を負うということになります。 なお、M&Aにおけるリスクヘッジの手段として「表明保証保険」というのがありますが、これについてはまた別の記事で説明したいと思います。
買い手のインセンティブ⑤現経営者に残ってほしい、あるいは現経営者に辞めてほしい
一般的に買い手がノウハウをもっていない異業種の会社を買収する場合は、現経営陣には何らかの形で残ってもらい、業績を維持・向上してほしいと買い手は考えます。
逆に、同業の会社を買収する場合は、買い手は経営ノウハウをもっており、「自分たちのやり方で経営したい」と思うので、現経営陣には一定期間の引き継ぎ後に退いてもらうことを希望することが多くなります。
社員に関しては、買い手としては、重要な顧客を握っている営業マンやコアとなる技術をもっている技術者には辞められると困るので、残留の確約をとることを求められることがあります。
しかしながら、社員には職業選択の自由があるので、売り手が特定の社員が辞めないことを保証することはできず、あくまでも引き留めるよう努力するということしかできません。
たまに、「買収後に余剰となる社員、働きのわりに高額の給与をとっている社員には辞めてもらいたい」と買い手が望むことがありますが、売り手の会社がしっかり利益を出していて、売り手から全社員の雇用条件維持を求められれば、買い手はそれを受け入れる場合がほとんどです。
買い手のインセンティブ⑥社名、本社所在地、主要ポストを希望どおりに決めたい
社名は、営業上どうしたほうがいいかで決める場合が多いです。元の社名を残したほうが顧客をつなぎとめるのにいいか、それとも買い手の知名度、ブランド力を活かして社名を変更したほうが新規顧客をとりやすいか、ということになります。
本社所在地は、管理上の問題で買い手と同じ場所にしたほうがいいかという点と、本社を移転した場合に社員が問題なく通勤できるかという点で、だいたい決めることになります。
主要ポストについては、売り手オーナー社長がどういう立場で引き継ぎまたは残留するかお互いの希望を元に協議して決めることになりますが、いずれにしても、通常は少なくとも過半数の取締役を買い手が出すことになります。
通常の買収の場合は、買収後に社名、本社所在地、主要ポストをどうするかというのは協議事項にはなりますが、買い手が売り手の会社を子会社化し経営権を得るので、どのみち将来これらのことは買い手が自由に決めることができます。
したがって、買収交渉のときは、当面どうするかを合意しておけばいいということになります。
一方、合併(中小企業のM&Aで合併の形をとることはまれですが)で会社が一つになる場合は、これらをどうするかはより大きな争点になります。
とくに対等合併を演出する場合は、これらがどうなるかによって、実質的にはどちらがどちらを買収したのかという対外的な見方も決まるので、非常にデリケートな交渉事項になります。
買い手のインセンティブ⑦なるべく多くの案件を上にあげたい
成長戦略として積極的にM&Aに取り組んでいる会社は、仲介会社や金融機関から提案された会社を場当たり的に買収検討するのではなく、能動的に多くの売却案件を集めて、その中から自社の戦略に合致し、適正価格で買収できる会社を選別しています。
ただし、買い手の中には、社内にM&Aの担当者がいて、持ち込まれた案件を精査して経営陣にあげることが目的化している場合もあります。
実際には買収する可能性がほとんどないのに、精緻な分析を行っていることや検討した案件の数によって担当者が社内で評価される場合、このようなことが起こりえます。