株式会社アズクリエーション
社員の雇用確保が第一条件、お金の話は一度もしなかった
譲渡企業 | 譲受企業 |
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㈱アズクリエーション | ㈱SP |
東京都 | 東京都 |
番組企画・制作 | システム開発 |
スキーム 株式譲渡 |
15歳で岩手から上京し、一旗揚げようと芸能界を目指した藤原典男氏(69歳)。その夢はミュージシャンとしてかなうも、有名になり、豊かな暮らしを送れるようになるまでは遠かったと言います。一から始めたテレビ番組の企画制作で起業し、音楽番組を中心に多数の実績を積み上げて26年。自身も69歳を迎えて、引退を模索する中で今回M&Aを決断しました。社員への思いと、譲渡先として、若手社長が経営するIT企業という、異業種の会社を選んだ理由について伺いました。
40歳で音楽の道をあきらめ、テレビ番組制作の世界へ
株式会社アズクリエーションは1994年、藤原さんが43歳の時に創業されたテレビ番組の企画制作会社です。もともと15歳で岩手から上京し、若い頃はミュージシャンをなさっていたそうですが、これまでのキャリアと創業の経緯について伺います。
学校へ行かずに働くという道を選んだのは、一旗揚げたいと考えたからです。当時、貧乏人が豊かになるとか、有名になるには芸能界に行くしかないと思っていました。私も芸能界を目指して東京に出てきたのですが、最初は精神病院の補助看護師としてアルバイトしながら、夜間高校に通いました。
芸能界の入口を一生懸命探して、目標を周囲の人に言い続けていたら、親しくなった看護師さんのご主人がジャズバンドのトランぺッターで、たまたまバンドのメンバーを探していたんです。そのバンドでウッドベースを担当することになります。夜間高校は残念ながら1年の2学期までで中退してしまいました。何故、ベースだったのかというと、たいして目立たない楽器だったからです(笑)。3カ月ぐらいそのバンドで修業し、ちょっと弾けるようになったので、いろいろなバンドを渡り歩き、結局、北島三郎さんのバンドに行くことになります。
当時、東京駅の構内にバンドマンが集まる場所というのがあって、そこへ行って、声を掛けられるのを待つんです。「ユー、何?」と言われて、「ベースです」と答えると、「じゃあ、来月から来てよ」となって、北島さんのバンドには3年ぐらいいたでしょうか。そこから音楽人生が始まって、自分のグループを持ったりしながら音楽活動を続けて、歌の先生をしたり、作詞・作曲も手掛けました。
ところが40歳を迎えたときに、男の人生は80歳ぐらいが一般的な寿命なので、二つ折りしたら40歳だと思ったんです。それまで25年間音楽をやってきたのに、一流になっていなかった。子どもが2人もいるのに、十分に食べていくことができていなかったので、音楽はすっぱりやめる決心をしました。かといって、次に何をやるかまったく当てはなかったのですが……。
知り合いの紹介で、NHKの番組制作に関わっている方にお会いし、「何もやっていないなら手伝ってよ」と言われて、音楽がわかるというだけで、FM番組でディレクターを任されます。そのうち、NHKのBSで初めてレギュラー番組が立ち上がることになり、「藤原は交渉事がうまい」ということで、新番組の事務局の担当を務めました。2年半の経験で番組制作のノウハウを身に付け、一念発起してつくったのがアズクリエーションです。
最初は資金がありませんから、女房の両親に300万円借りて、有限会社にしました。オフィスを借りる能力がないから友人のプロダクションに電話だけ置いてもらって、住所を借りました。ある日、NHKに請求書を持って行ったら、担当者が「おい、うちは有限会社と取引できるのか?」と大きな声で部内に聞こえるように言ったのです。その一言が悔しくて、株式会社にしたのが約2年後のことです。
おかげさまで仕事は順調でした。当時はまだ義理人情が通用した時代でしたから、必死に頑張っていれば、誰かが見ていて、評価してくれて、業界の先輩方にもすごく可愛がってもらいました。新年度が始まる前には、1年間の番組制作の予定が何本も見えている状態でした。
創業した1994年というと、バブル経済が弾けて、世の中の景気はあまり良くなかったと思いますが。
たまたまNHKがBS放送を始めたばかりで、タイミングが良かったのだと思います。競争相手が多くて、そこで生き残るのは難しいと知り合いから言われたこともあります。ただ、淘汰された後に入っていくのは無理だけど、みんなが群がっている時期なら問題ないと私は思いました。それまでの音楽家としての経験と事務能力に対する評価から、淘汰されても自分は絶対に残れるという自負がありましたから。
中小企業でも「会社を売る」選択肢があることを本で知る
創業から26年が経過しましたが、今回、株式譲渡を決断したのは、どういった理由からですか。
放送業界が大きく変わっていく中で、私の経験や知識があまり役に立たなくなってきたことが一番大きいです。また、15、16歳から芸能界と接してきて、そろそろ離れたいなという思いもありました。40歳でミュージシャンをやめた時と同じように、70歳という節目を迎えた時に、いまの生き方をしていていいのかと悩んだこともあります。
もう1つ、我が社の社員は入社して10年以上の長い人たちが多いのですが、仮に私が会社をあと10年続けて、一緒にいてくれたとすると、そこから転職なんて絶対にできません。今決断しないと、彼らをダメにしてしまうという思いもありました。自分の引退に当たって、どのような選択肢があるのかを探し始めたのが2019年の3月ぐらいです。
当初は取引先への譲渡や廃業も検討していましたが、同業のとある社長と食事をしながら話をしているときに、M&Aで「会社を売る」という選択肢があることを初めて知りました。M&Aの本を1冊買ってきて、読んでみると、中小企業でも売買できるとありました。そこでインターネットで中小企業を専門にM&Aの仲介をしている会社を探したところ、最初に出てきたのがインテグループさんだったというわけです。
「まだ決定ではありませんが、悩んでいます」みたいなメールを送ったら、けっこう早めに返信があったので、一度会ってみることにしました。
初回の面談では、どのような話をしましたか。
社員の将来がメインテーマでしたから、未来をイメージできる会社として残しながら、社員の雇用を確保することを第一条件に伝えました。お金の話はもちろん聞きましたが、最初から金額にはこだわっていなかったので、「これぐらいで売りたいんです」というお話は一度もしたことがありません。
それが私の美学でもあります。500万円、1000万円余計にもらったところで、残された社員が次々に辞めてしまう、会社から離れてしまうというのでは、私の26年間は何だったのかということにもなりかねませんから。その後の買い手候補との交渉でも、社員の雇用の確保だけは重点的にお話しさせていただきました。
数ある仲介会社の中で、何故、インテグループを選んだのでしょうか。
繰り返しになりますが、ネットで最初に出てきたのがインテグループさんです。インスピレーションで決めたので、他は一切探していません。そしたら、面談に現れたのが、あまりにも若い方(=中島氏)で、「いまの時代は、こういう若い人が人の人生を左右する現場に携わっているんだな」と思ったものです(笑)。私は、ビジネスマンとしてではなく、人として中島さんを信頼できるかどうかを見極めるよう努力しました。長い人生で経験の中で、どんなに数字上、ものごとが進んでも、信頼できない相手とは絶対にうまくいかないと思っているからです。何回かお会いしているうちに、私の波長に中島さんがついてきてくれるのが見えたので、これは信頼できると確信しました。
若い会社のほうが“チャレンジ”に適していると決断
会社売却を決断して、買い手候補への打診が始まり、面談へと進んでいったわけですが、途中で不安に思ったり、気が変わったりしたことはありませんでしたか。
それはなかったです。ただ、つらかったのは、本を読む限りでは3カ月から半年程度で株式譲渡の手続きは終わると書いてあったので、それが5カ月、6カ月となって……。最終的に7カ月かかりましたが、人に話すことのできない7カ月がこんなにしんどいものかという思いがありました。早く進んでほしいと思って、商売の神様といわれている北谷稲荷神社にも何回も行きましたよ(笑)。
3社の買い手候補と面談し、最終的には異業種の会社に売却を決定しました。その理由は何ですか。
実は当初、NHKにご縁の深い会社があって、そこしかないと中島さんにも伝えて交渉を進めていました。私が会社を抜けるということは、代わりのプロデューサーが必要なことを意味し、「どなたか来てくださいますか?」と聞いたら、「いまいるメンバーで頑張ってください」という話だったので、私の中では無理だなと思いました。条件はいろいろ提示してくださったのですが、私が求めているのはお金の話ではなかったので、これはダメだと思い、急いで他の買い手候補と交渉を始めたというわけです。
譲渡先に決まった株式会社SPは、越境ECのパッケージシステムを運営するIT企業です。最初は、箸にも棒にも掛からないような気持ちでお会いして、ITの会社に我が社の仕事ができるわけがないと思っていました。社長にお会いすると、35歳とまだお若いんですけれど、目が気に入りました。別に構えもおごりも感じられないし、一生懸命やっているということが情報としてインプットできました。何度目かの面談で、「プロデューサーを1人、必ず入れてほしい」と伝えると、「もう募集をかけています」と返ってきて、これはやる気があるな、ということで交渉を進めていきました。
SPさんは創業5年。一方、先述の同業他社は昭和48年創業とのことで、業界歴も長く、よくわかっていて、体力もあります。ただ、私の考えているチャレンジやチェンジという意味では、古い会社よりも5年目の若い会社のほうが、もしかしてやる気を含めて適任かもしれないし、何より、私の知らない世界への展開も含めて可能性を感じたことが大きな理由です。
実際に売却して、満足されていますか。
よくわかりません(笑)。すべてが初めての経験だし、今後も経験しないでしょうから、満足という言葉は使いにくい。ただ、売却が完了するまでは、心の置き場所がなかったというか、どこに置いていいのかわからなかったのですが、それが見えてきたところはあります。あとは粛々と静かにフェードアウトするのみです。
悩みは尽きないから「考えるより、感じる」ことが大事
譲渡後の予定を伺います。
2ヵ月間は引き継ぎで、ほぼ毎日出社します。その後の予定は未定ですが、対外的には1年間休みたいと言っています。これは1年間、ソファに横になって休んでいるということではなくて、収入を得なくてもいい期間を1年間ほしいという意味で、女房にはもう1年分の生活費をまとめて渡してあります。
収入がなくてもいい1年間を過ごして、その後、新たにビジネスを始める可能性もありますか。
あると思います。80歳まで働くと宣言していますから、70歳になる来年(2021年)の6月までに始められればいいです。40歳の時もそうでしたが、今やっていることをやめないと、次が来ない性格ですから、何をやるかは、これから考えます。
譲渡先のSP社に対して期待していることは何ですか。
私のテリトリーは放送と芸能しかありませんでしたから、その枠を超える新しい世界にぜひ導いていってほしいし、枠にとらわれないビジネス展開を図っていってほしい。残っている社員の才能は、私が社長をやっている限りは現状レベルまでしか引き出せなかったわけです。彼らの多くはまだ30歳代ですから、さらなる才能を開花させ、時代を切り開いていくようなエネルギーを、若いSPさんに注入してもらいたいとつくづく思います。
最後に会社の売却を検討しているオーナー社長に対して、メッセージやアドバイスをお願いします。
人にアドバイスなんてできる柄ではありませんが、結局、中小企業の場合、社員がすぐそばにいて、吐く息まで聞こえてくるような小さな環境の中で悩み始めるから、オーナー社長はものすごく自分を追い詰めることになると思います。実際、私もそうでした。
そうした中で今回、私がM&Aの一連の作業の中で念仏のように言い聞かせていたのは、「考えるより、感じろ」ということです。SPさんや中島さんを選んだように、感じることのほうが大切だと思っていましたから、感覚で進めていくことが大切だと思います。一方、考えるということは、基本的には結果を見ることにつながりますから、どうしてもお金のことなどを考えがちです。金銭的な条件を一番の題材にしてしまうと、悩みの種類が変わってしまい、まとまるものもまとまらなくなってしまいます。